日高の歴史
エピソード1 原始 まほろばの村
日高に最初の人々がやってきたのはおよそ20000年前の氷河期の終わりに近い、旧石器時代と呼ばれる時代です。そのころは、寒冷な気候で、動物などを獲る狩猟と植物の採集に生活の糧を求めていました。その狩猟に用いていた石の道具が、大谷沢、下大谷沢地区の向山遺跡、下向山遺跡、高萩地区の拾石(じゅっこく)遺跡、堀ノ内遺跡で見つかっています。
縄文時代になると人々の生活は旧石器時代に比べると大きく変わりました。定住型の生活へと変化し、村が築かれるようになりました。日高最古の家の跡は大谷沢地区の向山遺跡から見つかったおよそ8000年前の縄文時代草創期前半のものです。
縄文時代中期(4500年前)になると、小畔川などの小河川に沿って数多くの村が築かれました。高萩地区の宿東遺跡からは、180軒を越す家の跡や5棟の掘立柱建物跡と多くの土器や石器が出土しています。中でも新潟県の姫川周辺でしか取れないヒスイで作ったペンダントは、縄文時代の交易を知る貴重な資料です。
縄文時代の次に続く、稲作文化の弥生時代の村は見つかっていません。
エピソード2 古代 新たな国づくり
古墳時代の日高は村が少なく、古墳時代中期の5世紀ごろの村は南平沢地区の和田遺跡、鹿山地区の明婦遺跡で見つかっています。古墳時代後期の7世紀ごろの村は高萩地区の上猿ヶ谷戸遺跡で見つかっています。
奈良時代に入ると高麗郡の建郡という歴史的な出来事がありました。このことは古代歴史書の続日本紀(しょくにほんぎ)の霊亀(れいき)2年(716)の項に、「駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の七ヶ国の高麗人1799人を移して高麗郡を設置した」と書かれています。高麗郡は和名妙(わみょうしょう)によると、高麗郷と上総郷の2郷を置いたとあります。これは現在の日高市と飯能市を中心とした範囲と推測されています。
高麗郡の郡長は、高句麗から日本に渡来した玄武若光で、大宝3年(703)に王姓(こきしのかばね)を与えられた高麗王若光(こまこきしじゃっこう)と考えられています。高麗王若光は高麗明神として高麗神社に祀られ、宮司は若光の子孫が代々勤めています。
建郡以降小畔川などの小河川に沿って谷津田の開発を進め、それに合わせて村が作られていきました。高萩地区の拾石(じゅっこく)遺跡、王神遺跡、堀ノ内遺跡はこの時代を代表する規模の大きな村です。これらの村からは役人が身につけるベルトの装飾に使われた巡方(じゅんぽう)、丸靹(まるとも)、鳥形硯(とりがたすずり)、隆平永宝(りゅうへいえいほう)(平安時代の古銭)など珍しいものが出土しています。
建郡後に女影(おなかげ)廃寺、高岡廃寺、大寺廃寺の寺院が相次いで建立されました。その他に、須恵器(すえき)と呼ばれる土器を焼いた登り窯が高岡地区に築かれました。
エピソード3 中世 武士の活躍
平安時代末に登場した武蔵七党を代表とする武士団が活躍する時代です。いずれの武士団も土地を開墾し、自らの財産を守るために武装していました。合戦があると恩賞を目当てに参戦しました。市内には高麗を姓とする3つの武士集団が挙げられます。古代の渡来人若光を祖とする「渡来系高麗氏」、武蔵七党の丹党から出た「丹党高麗氏(たんとうこまし)」、桓武平氏(かんむへいし)の流れを汲む秩父氏より出た「平姓高麗氏(へいせいこまし)」です。その他に鎌倉時代の記録『吾妻鏡』に登場する女影氏(おなかげし)がいました。
鎌倉時代
鎌倉時代になると鎌倉幕府は兵員馬匹を鎌倉に集めるために街道の整備を行ないました。この街道は鎌倉から関東諸国・信濃・越後・陸奥方面に向かっており、上道(かみつみち)・中道(なかつみち)・下道(しもつみち)・秩父道などと呼ばれていました。日高市内を通っているのは上道で、大谷沢から女影を通り駒寺野新田へ通じています。中世を通じて鎌倉街道沿いは数多くの合戦の舞台となりました。
南北朝時代の建武2年(1335)7月、鎌倉幕府の復興を願う鎌倉十五代執権北条高時(ほうじょうたかとき)の遺子時行(ときゆき)は、信濃で諏訪頼重(すわよりしげ)らに擁立され挙兵、建武の新政に不満を持つ武士と合流しながら鎌倉街道を南下し鎌倉を目指しました。そして7月22日、それを阻止しようとする足利直義(あしかがただよし)軍と初めて合戦に及んだのが女影原でした。
この戦で時行軍は直義軍に勝ち、その後も小手指原・府中などでも直義軍を破り7月25日に鎌倉を占領しました。この一連の戦乱を「中先代の乱(なかせんだいのらん)」といいますが、僅か20日程度で足利尊氏に攻められ、時行は鎌倉から敗走しました。
室町時代
市内に残る代表的な古文書に「町田家文書」があります。この古文書は南北朝時代の平姓高麗氏の動向のみならず、関東の様子も伝えており貴重なものです。特に高麗経澄(こまつねずみ)は度々足利尊氏軍に従軍し戦功を上げています。
室町幕府草創期に、足利尊氏・直義兄弟の対立により起こされた大規模な内乱を「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」と言います。京都から鎌倉へ入った直義を討つため尊氏は関東へ出撃しますが、この時高麗経澄は鬼窪(白岡町)で兵を挙げ尊氏軍に従軍し、羽祢倉(富士見市)・阿須・足柄山で合戦し軍功を上げ、鎌倉に入ったことが町田家文書から分かります。
その後、足利直義の死によって観応の擾乱は終息しましたが、翌月、南朝方の新田義興(にったよしおき)・義宗(よしむね)兄弟が上野国で挙兵して鎌倉を占拠しました。足利尊氏は各地で新田軍と戦いましたが、この時も高麗経澄は尊氏軍に入り人見原(東京都府中市)や高麗原(日高市平沢か)で合戦していることが同文書にみられます。
エピソード4 近世 陣屋と街道
江戸時代の日高市は25ヶ村(のちに36ヶ村)に分かれていました。市内に残る大字名の大部分がこの時代の村名を受け継いでいます。また、村内の街道沿いや名主宅の前には高札場(こうさつば)が置かれ、幕府の法度(はっと)などを書いた木札が掲げられていました。
これらの村は天領と旗本領となり、天領は関東郡代や代官が分割支配しました。大きな旗本は陣屋を所領地内に置いていました。
徳川家康は、直轄領を支配するため伊奈忠次(いなただつぐ)、彦坂元正(ひこさかもとまさ)、大久保長安(おおくぼながやす)らを代官に任命しました。この内、長安は八王子に陣屋(じんや)を置き、さらに、高麗・毛呂郷を管轄するため高麗本郷にも陣屋を置きました。
この陣屋は高麗陣屋と呼ばれました。慶長2年(1597)に陣屋は火災に遭い、敷地が狭かったこともあり栗坪に移りました。高麗市は陣屋が高麗本郷にあったころから開かれ、陣屋が移ると市も栗坪と梅原で開かれるようになりました。市はやがて高麗宿に発展しました。
延享(えんきょう)年間(1744から47)、この地方で徳川御三卿(田安・一橋・清水家)の領地が多くなると、高麗陣屋は廃止されました。
市の東部には、徳川家康を祀る日光東照宮と八王子を結ぶ日光脇往還(日光道・日光街道とも)が南北に走り、高萩には宿が置かれました。現在でも、日高市から鶴ヶ島市にかけての国道407号は「日光街道杉並木」という名称で杉並木が残っています。杉などは17世紀末に整備された際に植えられました。
エピソード5 近・現代 近代化と日高の誕生
明治時代に廃藩置県が行われ、日高は韮山県、品川県、川越県、熊谷県と編入替えが行われました。現在の埼玉県になったのは明治9年(1876)のことです。明治12年(1879)に高麗郡の郡役所が川越市に置かれましたが、明治29年(1896)に郡の統合により、高麗郡は入間郡に統合され高麗郡として長い間使われてきた名称は消えることとなりました。
明治5年に学区制が敷かれ新堀、台で学校ができました。明治7年に高麗川小学校の前身の原宿学校が、廃寺となっていた廣長寺に開校されました。高萩では、高萩小学校と女影小学校が統合して現在の高萩小学校へ至っています。
江戸時代の36村は明治時代になってもそのまま残っていましたが、明治21年(1888)4月に「町村制」交付された翌年4月に合併され、高麗村、高麗川村、高萩村の三村が誕生しました。
昭和4年に武蔵野鉄道(西武鉄道の前身)の飯能・吾野間が開通して、高麗駅、武蔵横手駅が開業しました。国鉄は昭和8年に八高線を開通させ、同時に高麗川駅が開業しました。昭和15年には川越線が開通して、武蔵高萩駅が開業しました。交通機関の充実は近代化を進める大きな原動力と期待されました。
昭和30年2月に高麗村と高麗川村が合併して日高町が誕生しました。「日高」の名称は高麗川・高麗両村からの公募により決定されました。さらに翌年9月に高萩村が編入して現在の日高市の範囲が決まりました。
昭和40年代から50年代にかけて日高、高萩、こま川、こま武蔵台の各団地が完成し、東京のベットタウン化が進みました。
昭和62年、人口が5万人を超え、平成3年(1991)10月1日に市制施行され、日高市が誕生しました。
更新日:2017年03月01日