市指定文化財
考古資料
四本木の板石塔婆(しほんぎのいたいしとうば)所在地 日高市大字原宿103
リンク先の市指定重要文化財をご覧ください。
四本木の板石塔婆(しほんぎのいたいしとうば)所在地 日高市大字原宿103
板石塔婆は板碑とも呼ばれ、武蔵国では秩父で採れる緑泥片岩を用いています。鎌倉時代から戦国時代に至る400年間に、追善(死後に供養すること)や逆修(ぎゃくしゅう)(生前にあらかじめ供養をすませること)などを目的に造立されました。四本木の板石塔婆は主尊(しゅそん)に阿弥陀如来の種子(しゅじ)が刻まれ、正和3年(1314年)銘がみられます。高さ266センチメートル幅67センチメートルで市内最大です。
大川戸家の宝篋印塔(おおかわどけのほうきょういんとう)個人所蔵
リンク先の市指定重要文化財をご覧ください。
大川戸家の宝篋印塔(おおかわどけのほうきょういんとう)個人所蔵
宝篋印塔はもとは密教系の石塔でしたが、鎌倉期以降は宗派を超えて造立されるようになりました。滅罪や延命などの利益から、追善(死後に供養すること)や逆修(ぎゃくしゅう)(生前にあらかじめ供養をすませること)の供養塔、墓碑塔として多く造立されました。相輪と塔身が欠落するが、基礎部は格座間(こうざま)が二つある関東形式です。永徳3年(1383年)の銘があります。
高岡廃寺(たかおかはいじ)出土遺物
リンク先の市指定重要文化財をご覧ください。
高岡廃寺は外秩父山地の東端に位置しています。寺院跡は東の延びるきゅうりょうからさらに小さく南に突き出す標高160メートルから170メートルの小丘陵の南斜面に立地しています。
昭和51年にゴルフ場造成工事に伴う発掘調査により建物跡4棟などの遺構が検出され、全容が明らかになりました。8世紀中頃に寺院の造営が始まり、11世紀初めには廃寺になったことを確認しました。遺物は建物の屋根に葺かれていた平瓦、丸瓦、軒平瓦、軒丸瓦、生活に用いていた須恵器の多嘴壺(たしこ)、坏、小形壺、円形の硯(すずり)、高級焼き物の灰釉・緑釉陶器(かいゆ・りょくゆようき)、塑像(そぞう)と呼ばれる粘土で造る仏像、瓦塔(がとう)・瓦堂(がどう)は赤褐色に焼かれた塔、堂のミニチュア、建物物の隅に吊り下げられる風鐸(ふうたく)、釘などの金属製品が出土しています。
県内では数少ない古代寺院の資料です。また、古代高麗郡や地方寺院の姿を理解する考古資料として、学術的にも大変貴重な資料といえます。
大寺廃寺(おおてらはいじ)出土遺物
リンク先の市指定重要文化財をご覧ください。
大寺廃寺は、毛呂山丘陵南端の標高90メートルから100メートルの緩やかな斜面地に位置しています。
昭和56年から60年に寺院の範囲確認を目的とした発掘調査を行い、建物跡3棟の遺構が検出されました。遺物は8世紀後半から10世紀にかけてのもので、建物の屋根に葺かれていた平瓦、丸瓦、軒平瓦、軒丸瓦、鬼瓦、生活に用いていた須恵器の坏、甕、建物物の隅に吊り下げられる銅製風鐸(ふうたく)、鉄釘などの金属製品、金属を鋳造するときに使う坩堝(るつぼ)が出土しています。鬼瓦は外形がアーチ形で、目は透かしで吊上がり、上向きの小振りな鼻が付けられた独特な意匠をしています。銅製風鐸と坩堝の付着物の金属学的調査を行い、共通の分析結果がでました。このことから、この風鐸は寺院建築の際に現地で製作されたことが理解できます。
県内では数少ない古代寺院の資料です。また、古代高麗郡や地方寺院の姿を理解する考古資料として、学術的にも大変貴重な資料といえます。
若宮遺跡(女影廃寺(おなかげはいじ))2、3次調査出土遺物
リンク先の市指定重要文化財をご覧ください。
若宮遺跡は市の中央を西から東へ蛇行しながら流れる、下小畔川と小畔川に挟まれた標高59メートルから65メートルの東西に長い台地上の斜面地に立地しています。
女影廃寺(おなかげはいじ)は、若宮遺跡内に含まれる遺跡です。創建瓦は周縁に面違い鋸歯文(きょしもん)を持つ複弁八葉(ふくべんはちよう)の大和川原寺系の軒丸瓦が使われていることから、高麗郡設置早々に中央の権力の影響を受けて創建された、郡寺(ぐんでら)的性格が強い寺と考えられています。
遺物は8世紀中頃から10世紀にかけてのもので、建物の屋根に葺かれていた平瓦、丸瓦、軒平瓦、軒丸瓦、生活に用いていた須恵器の坏、甕、赤褐色に焼かれた塔、堂のミニチュアの瓦塔(がとう)・瓦堂(がどう)、鉄釘、鉄鏃(てつぞく)などの金属製品が出土しています。墨で「寺」と書かれた須恵器の坏が出土しており、この地に寺院が存在したことを示す資料です。
県内では数少ない古代寺院の資料です。また、古代高麗郡や地方寺院の姿を理解する考古資料として、学術的にも大変貴重な資料といえます。
歴史資料
高麗氏系図(こましけいず)所在地 日高市大字新堀833
リンク先の市指定重要文化財をご覧ください。
高麗王若光(こまこきしじゃっこう)の長子家重から高麗家代々の名前が記されています。巻首に記されている前文の一部が欠落しますが、霊廟(れいびょう)を建てて若光を高麗明神として崇めたことや勝楽寺の創建の由来が書かれています。この寺は現在の聖天院勝楽寺の前身と考えられています。
書跡・典籍・古文書
徳川将軍寺領寄進状(とくがわしょうぐんじりょうきしんじょう)書跡 所在地 日高市大字新堀990甲
リンク先の市指定重要文化財をご覧ください。
徳川将軍寺領寄進状(とくがわしょうぐんじりょうきしんじょう)書跡 所在地 日高市大字新堀990甲
徳川家康が関東に入府した翌年の天正19年(1592年)11月に聖天院に交付した朱印状で、寺領を寄進することと不入の権を認めることが書かれています。2代将軍秀忠以降の将軍が交付した朱印状(これは継目安堵状という)11通の計12通が指定されています。
徳川将軍社領寄進状(とくがわしょうぐんしゃりょうきしんじょう)書跡 日高市大字新堀833
リンク先の市指定重要文化財をご覧ください。
徳川将軍社領寄進状(とくがわしょうぐんしゃりょうきしんじょう)書跡 日高市大字新堀833
徳川家康が関東に入府した翌年の天正19年(1592年)11月に高麗神社に交付した朱印状で、社領を寄進することと不入の権を認めることが書かれています。2代将軍秀忠以降の将軍が交付した朱印状(これは継目安堵状という)11通の計12通が指定されています。
勝音寺大般若経(しょうおんじだいはんにゃきょう)典籍 所在地 日高市大字栗坪184
リンク先の市指定重要文化財をご覧ください。
勝音寺大般若経(しょうおんじだいはんにゃきょう)典籍 所在地 日高市大字栗坪184
釈迦が説いた教えを記録したもので、600巻余の膨大な経典です。これを大般若経と呼びます。僧昌旭が康安2年(1362年)から貞治3年(1364年)の3年間をかけて600巻を写経しました。ただし、600巻の内87巻は享保8年(1723年)に補写されています。
史跡
高麗王若光の墓(こまこきしじゃっこうのはか)所在地 日高市大字新堀990甲
リンク先の市指定重要文化財をご覧ください。
高麗王若光の墓(こまこきしじゃっこうのはか)所在地 日高市大字新堀990甲
聖天院の境内に立てられている多層塔で、鎌倉時代の造立と伝えられています。塔の最上部の相輪と各層の庇部が失われています。新編武蔵野風土記に、高麗王塔の記述が見られます。石質は凝灰岩で4段の屋根石からなり、高さは180センチメートルです。
台の高札場跡(だいのこうさつばあと)所在地 日高市大字台121
リンク先の市指定重要文化財をご覧ください。
台の高札場跡(だいのこうさつばあと)所在地 日高市大字台121
江戸時代に幕府が定めた法度や覚書などを書き記した板札を、村の中心や主要な街道が交錯する交差点といった人通り多く、目に触れやすい場所に掲示しました。板札は人々を見下ろすように高く掲げられ、この掲示施設を高札場といいます。
高札には「キリスト教は禁止されているが、信仰する者を届出た者には褒美を上げよう。しかし、隠したりした場合は、名主、五人組にも罰を与える。」と切支丹禁制に関わる内容が記されています。この高札場は、昭和60年に復元したものです。
三枝氏歴代の墓(さいぐさしれきだいのはか)所在地 日高市大字女影1375の内
リンク先の市指定重要文化財をご覧ください。
三枝氏歴代の墓(さいぐさしれきだいのはか)所在地 日高市大字女影1375の内
長松寺の開基者は、甲斐の国出身の三枝土佐守源守重です。守重の父の守吉は武田氏の滅亡後、徳川家康に仕えました。守重は、女影村の703石、田木村の55石を含めた6000石の知行地を与えられていました。守重に関係する開基塔1基、自然石1基、宝篋印塔(ほうきょういんとう)2基、箱型塔5基が指定されています。
大寺廃寺跡(おおてらはいじあと)所在地 日高市大字山根1316の内
リンク先の市指定重要文化財をご覧ください。
大寺廃寺跡(おおてらはいじあと)所在地 日高市大字山根1316の内
大寺廃寺の発掘調査を昭和56年度から58年度、60年度にかけて行い、礎石を用いた建物跡4棟を検出しました。8世紀中頃から9世紀後半に存続していた古代寺院です。指定されている遺構は、東西3軒(6.9メートル)南北3間(南北7.8メートル)の建物跡です。
建造物
聖天院山門(しょうでんいんさんもん)所在地 日高市大字新堀990甲
リンク先の市指定重要文化財をご覧ください。
聖天院山門(しょうでんいんさんもん)所在地 日高市大字新堀990甲
入母屋造りの総欅の木造二層の楼門で、間口約8.8メートル、奥行き約5.5メートル、面積48.4平方メートルです。高欄親柱擬宝珠に天保3年(1832年)の銘が刻まれていることから、172年前の江戸時代後半に建立されたと考えられます。山門に向かって右手に風神、左手に雷神の木造が祀られています。
駒形神社本殿(こまがたじんじゃほんでん)所在地 日高市大字高萩750
リンク先の市指定重要文化財をご覧ください。
駒形神社本殿(こまがたじんじゃほんでん)所在地 日高市大字高萩750
駒形神社には誉田別命(ほんだわけのみこと)、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)、高良玉垂命(こうらたまたるみのみこと)の三柱を祀っている社です。本殿は江戸時代末の作と考えられています。身舎の前方に庇を付けた形式の一間社流造(いっけんしゃながれつくり)です。屋根はこけら葺きで、向拝柱(ごはいしら)に登り龍、下り龍が彫られています。
三島神社本殿(みしまじんじゃほんでん)所在地 日高市大字下大谷沢144
リンク先の市指定重要文化財をご覧ください。
三島神社本殿(みしまじんじゃほんでん)所在地 日高市大字下大谷沢144
三島神社は事代主命(ことしろぬしのみこと)の一柱を祀っている社です。本殿は江戸時代末の作と考えられています。身舎の前方に庇を付けた形式の一間社流造(いっけんしゃながれつくり)です。屋根はこけら葺きで、向拝柱(ごはいしら)に登り龍、下り龍が彫られています。
霞野神社本殿付剣道の懸額(かすみのじんじゃほんでんつけたりけんどうのけんがく)所在地 日高市大字女影444
リンク先の市指定重要文化財をご覧ください。
霞野神社本殿付剣道の懸額(かすみのじんじゃほんでんつけたりけんどうのけんがく)所在地 日高市大字女影444
霞野神社は、明治43年に中沢、女影地区の12社を合祀してできました。本殿は江戸時代末の作と考えられています。柱の上の組物と呼ばれる箇所は、上部からの荷重を支える部分です。ここには、獏、獅子頭の彫刻が施されています。身舎の前方に庇を付けた形式の一間社流造(いっけんしゃながれつくり)で、屋根はこけら葺きです。
懸額は、文久元年(1861年)四月穀日(こくじつ)に、甲源一刀流の比留間和十郎源信治の門弟が奉納したものです。
聖天院阿弥陀堂(しょうでんいんあみだどう)所在地 日高市大字新堀990甲
リンク先の市指定重要文化財をご覧ください。
聖天院阿弥陀堂(しょうでんいんあみだどう)所在地 日高市大字新堀990甲
本堂は昭和59年に修復され、外観は大きく変わっています。修復時に宝永の墨書きが見つかり、およそ300年前に建築されたことがわかりました。堂内は中世の禅宗様式を持ちながら土間ではなく、床が設けられている事が特色です。須弥檀(しゅみだん)には阿弥陀如来坐像、勢至菩薩坐像(せいしぼさつざぞう)、観音菩薩坐像(かんのんぼさつざぞう)の三尊が安置されています。
無形・有形民俗文化財
横手神社の獅子舞(よこてじんじゃのししまい)無形民俗 所在地 日高市大字横手509
リンク先の市指定重要文化財をご覧ください。
横手神社の獅子舞(よこてじんじゃのししまい)無形民俗 所在地 日高市大字横手509
以前は9月15日に行われていましたが、現在は8月25日に近い土曜日・日曜日に行われています。村の豊作祈願、安全祈願の意味が込められています。諸役は、御幣、万燈、山伏(法螺貝)、オカメ、(天鈿女命)、天狗様(猿田彦命)、笹楽子、導き、はい追い、獅子、外道、歌謡い、笛吹きです。獅子は、前獅子(雄)、中獅子(雌)、後獅子(雄)の3頭で一組です。祭りの流れは、大祭の前日に村周りを行い、横手神社から瀧泉寺へと行き、獅子舞を奉納します。当日は、宮参り、雌獅子がくし、宮参り、竿がかりを演じます。
諏訪神社の獅子舞(すわじんじゃのししまい)無形民俗 所在地 日高市大字栗坪239
リンク先の市指定重要文化財をご覧ください。
諏訪神社の獅子舞(すわじんじゃのししまい)無形民俗 所在地 日高市大字栗坪239
8月28日に行われていましたが、近年は8月28日に一番近い土曜日・日曜日に変更となりました。悪病払いの意味が込められています。諸役は、オカメ(天鈿女命)、貝吹き(山伏)、天狗、棒使い、ササラッコ、獅子、はい追い、笛吹きです。獅子は、先獅子(雄)、中獅子(雌)、後獅子(雄)の3頭で一組です。祭りの流れは、諏訪神社で宮参りを狂い、村回りへと出ていきます。神社に戻ってから雌獅子がくし、竿がかりが演じられます。
野々宮神社の獅子舞(ののみやじんじゃのししまい)無形民俗 所在地 日高市大字野々宮146
リンク先の市指定重要文化財をご覧ください。
野々宮神社の獅子舞(ののみやじんじゃのししまい)無形民俗 所在地 日高市大字野々宮146
10月3日から9日の間の日曜日の例大祭に、3月3日に行われた祈年祭のお礼として、秋の豊作の感謝や悪魔払いとして奉納されます。諸役は仲立、指導員、オカメ(天鈿女命)、貝吹き、天狗(猿田彦)、棒使い、ササラ、獅子、はいおい、笛吹きです。獅子は、前獅子(雄)、中獅子(雌)、後獅子(雄)の3頭で一組です。祭りの流れは、宮参り、竿掛り、願獅子、笹掛り、花すりを演じます。笹掛りは蛇を呑む演目で、花すりは花を持ってきて雌獅子を誘き出す演目です。この二つの演目は、野々宮神社だけの珍しい演目です。
高麗神社の獅子舞(こまじんじゃのししまい)無形民俗 所在地 日高市大字新堀833
リンク先の市指定重要文化財をご覧ください。
高麗神社の獅子舞(こまじんじゃのししまい)無形民俗 所在地 日高市大字新堀833
10月19日の例大祭に、秋の収穫を感謝して奉納されます。獅子は、先獅子(雄)、中獅子(雌)、後獅子(雄)の三頭で一組です。その他に棒使い、ほら貝、お天狗、オカメ、簓子(ササラッコ)、導き、幣追いと唄方、笛方の諸役で構成されています。演目は、宮参り、水天宮参り、雌獅子がくし、願獅子と進み、最後に獅子舞のクライマックスである竿掛りが演じられます。水天宮参りは、高麗神社だけの演目です。
八坂神社の祭りばやし(やさかじんじゃのまつりばやし)無形民俗 所在地 日高市大字上鹿山170-1
リンク先の市指定重要文化財をご覧ください。
八坂神社の祭りばやし(やさかじんじゃのまつりばやし)無形民俗 所在地 日高市大字上鹿山170-1
八坂神社はスサノオノオウノミコトの一柱を祀っています。祭礼は8月14、15日に行われ、祭りばやしが奉納されます。お囃子の流派は東京都世田谷の王蔵院流旧祭囃子で、川越市福原の中台から伝授されました。山車で、獅子、三番叟(さんばそう)、にんば、白狐など十種目の演目を踊ります。使われる楽器は、横笛、中太鼓・締太鼓2・鉦1です。
霞野神社の獅子舞諸道具(かすみのじんじゃのししまいしょどうぐ)有形民俗 所在地 日高市大字女影444
リンク先の市指定重要文化財をご覧ください。
霞野神社の獅子舞諸道具(かすみのじんじゃのししまいしょどうぐ)有形民俗 所在地 日高市大字女影444
昭和30年代までは、10月17日の例大祭の時に豊作祈願と雨乞いを祈願して獅子舞を奉納していたが、現在は行われていません。諸役は、獅子、天狗、オカメ、貝吹き、ササラ、にょっとこ、笛方、歌方です。獅子は男獅子、女獅子、太夫獅子の3頭で一組です。現在は獅子頭、天狗面、オカメ面、ほら貝など使われていた諸道具が、氏子により大切に保管されています。
野々宮神社奉納相撲場付関係資料(ののみやじんじゃほうのうすもうばつけたりかんけいしりょう)有形民俗 所在地 日高市大字野々宮146
リンク先の市指定重要文化財をご覧ください。
野々宮神社奉納相撲場付関係資料(ののみやじんじゃほうのうすもうばつけたりかんけいしりょう)有形民俗 所在地 日高市大字野々宮146
拝殿前の6メートル四方、高さ45センチメートルの土壇の上には、天保二年(1831年)に土俵古実作法にのっとり、江戸相撲歳寄行司兼木村庄之助正武が築いた土俵が保存状態も良く残っています。この土俵で、奉納相撲が行われていました。その他に、「嘉永二已酉年(1849年)林鐘十有一日於当社興業」と記されている相撲番付が保存されています。土俵、番付表2枚、古文書2通、力石3個が相撲関係資料として指定されています。
彫刻
木造阿弥陀如来坐像(もくぞうあみだにょらいざぞう)所在地 日高市大字新堀990甲
リンク先の市指定重要文化財をご覧ください。
木造阿弥陀如来坐像(もくぞうあみだにょらいざぞう)所在地 日高市大字新堀990甲
聖天院阿弥陀堂の本尊で、来迎印を結び、右足前に結跏趺坐する阿弥陀像です。檜材の寄木造りで、像高は89.6センチメートルです。像容は穏和な中にも溌剌とした生気が認められ、若々しく張りのある円満な面貌が表現されています。像の特色や構造などから13世紀前半頃の造立と考えられています。ただし、江戸時代の宝永元年(1704年)に、阿弥陀堂改修と同じ時期に修理されています。
木造不動明王及び両脇侍像(もくぞうふどうみょうおうおよびりょうわきじぞう)所在地 日高市大字新堀990甲
リンク先の市指定重要文化財をご覧ください。
木造不動明王及び両脇侍像(もくぞうふどうみょうおうおよびりょうわきじぞう)所在地 日高市大字新堀990甲
聖天院の本尊として伝来するもので、不動明王の左側に像高45センチメートルの矜羯羅童子(こんがらどうじ)、右側には像高45.6センチメートルの制咤迦童子(せいたかどうじ)が配されています。不動明王は、像高38センチメートルの小型の坐像です。その像内に納入されていた8件11点の銘札等には、天正8年(1580年)に鎌倉仏師の大蔵法眼によって造立し、寛永元年(1624年)に両脇侍像を新造させて三尊一具にしたことが記されていました。不動明王の腹内に弘法大師の作と伝える二寸五分の不動立像が収められています。
木造観音・勢至菩薩両立像(もくぞうかんのん・せいしぼさつりょうりつぞう)所在地 日高市大字新堀990甲
リンク先の市指定重要文化財をご覧ください。
木造観音・勢至菩薩両立像(もくぞうかんのん・せいしぼさつりょうりつぞう)所在地 日高市大字新堀990甲
二躰の菩薩像は、聖天院の本堂に安置されています。ともに頭上に丈の高い宝髻を結い、額のやや上に天冠台をつけている。像高はともに104.7センチメートルで、格調の高い、整った出来映えを見せ、穏やかな面貌が表現されています。鎌倉時代初期の特徴が見らます。
千手観音坐像及び両脇侍立像(せんじゅかんのんざぞうおよびりょうわきじりつぞう)所在地 日高市大字栗坪184
リンク先の市指定重要文化財をご覧ください。
千手観音坐像及び両脇侍立像(せんじゅかんのんざぞうおよびりょうわきじりつぞう)所在地 日高市大字栗坪184
勝音寺の本尊として安置されています。千手観音の右側に不動明王、左側に毘沙門天を両脇侍とする珍しい三尊構成です。三尊とも檜材寄木造りで、像高は千手観音が52センチメートル、不動明王は39センチメートル、毘沙門天は41.5センチメートルです。千手観音の台座で発見された墨書銘に、享保18年(1733年)の修理を行ったことと、南北朝時代の延文5年(1360年)に再興されたことが記されていました。昭和61年に三尊の解体修理の際に、千手観音の像内から天正9年(1581年)の年紀を持つ4枚の銘札が発見され、このときに鎌倉仏師の法眼長盛が手を加えたことがわかりました。法眼長盛は大蔵法眼とも名乗り、聖天院本尊不動明王の造立も行っています。
満蔵寺木造不動明王及び両脇侍像(まんぞうじもくぞうふどうみょうおうおよびりょうわきじぞう)所在地 日高市大字梅原266
リンク先の市指定重要文化財をご覧ください。
満蔵寺木造不動明王及び両脇侍像(まんぞうじもくぞうふどうみょうおうおよびりょうわきじぞう)所在地 日高市大字梅原266
満蔵寺の本尊で、頭頂部に水瓶を戴く、珍しい不動明王坐像です。不動明王の左に矜羯羅童子(こんがらどうじ)、右に制咤迦童子(せいたかどうじ)を配する不動三尊像です。三尊ともに形制、彫技が整った洗練された出来映えを見せています。像高は不動明王が48.5センチメートル、矜羯羅童子は31センチメートル、制咤迦童子は32.8センチメートルです。
工芸品
聖天院元禄四年銅鐘(しょうでんいんげんろくよねんどうしょう)所在地 日高市大字新堀990甲
リンク先の市指定重要文化財をご覧ください。
聖天院元禄四年銅鐘(しょうでんいんげんろくよねんどうしょう)所在地 日高市大字新堀990甲
勝楽寺第三十三代法印賢海上人が、江戸神田の鋳工小沼播磨守藤原正永に造らせました。元禄4年(1691年)の鋳造で、総高101.5センチメートル、口径77.5センチメートルです。
胴部には「武州高麗勝楽寺第三十三代 法印賢海上人 奉鋳造銅鐘一口長四尺七寸三分横弐尺五寸五分 諸行無常 是生滅法 生滅滅己 寂滅為楽 建槌一打三千衆雲如集 霜鐘三振四生苦冰如消 長眠聞之而驚覚永夜 因之而忽暁一切衆生 殊門末旦越施入之輩 聞鐘速脱罪苦件之衆 一打鐘声当抜苦成仏乎 于時元禄二年歳次十月日 二 辛未 同州豊嶋郡江戸神田鋳物大工小沼播磨守藤原正永」と陽鋳銘があります。
更新日:2020年05月22日