地域物語 第22編「受けつがれる教育と 読みつがれる文学と −師匠たちの筆塚 文人たちの石碑−」
教育制度の整った現代に生まれ育った私たちは、ごく当たり前に読み書きができます。江戸時代の日本は諸外国に比べ庶民の識字率が高かったと言われますが、それは「寺子屋」と呼ばれる私塾で近在の子供たちを教える人たちがいたためです。寺の僧侶や武士、町人などさまざまな人が寺子屋の「師匠」となって、当時の初等教育を担ったのです。そればかりでなく、各々の学問を門下生に教授することもありました。「師匠」たちは地域の知識人という顔も持っていたと言えます。 明治5年(1872年)、政府により新たな学制が布かれ、教育制度は大きな変革期を迎えます。日高においても翌明治6年に新堀学校(新堀・聖天院)、台学校(台・円福寺)、高萩学校(高萩・谷雲寺)が開校し、その後も増えていきます。寺子屋の師匠たちの中には、教師となり新時代の教育を支えていく人もいました。
「渡来人の郷」である日高には多くの文人たちの足跡をみることができます。作家や俳人など武蔵野の奥地を訪ねた彼らは、この地に創作意欲をかき立てられ、数々の作品を残しました。その作品を刻んだ石碑が、今もひっそりとこの地を見守っています。
この地域物語では、教育の担い手となった人々を称えた筆塚の碑と、日高を訪ね作品を残した文人たちの記憶を伝える石碑を巡ります。
(注釈)人物写真の無断転用は、ご遠慮ください。
歴史名勝No66「雲松斎(うんしょうさい)の筆塚」
雲松斎の筆塚
筆塚の位置
谷雲寺西側の墓地内(矢印の所)にあります。碑は、旧日光街道を向いています。
谷雲寺十七世玄竜和尚を称えた碑です。玄竜和尚は信濃国に生まれ、幼い頃谷雲寺に入りました。谷雲寺では十三世宗苗が寺子屋を開業し、玄竜も学びました。安政6年(1859年)、玄竜は住職になると寺子屋の名を「谷雲寺塾」と改め、明治7年(1874年)に廃業するまで教授しました。碑に刻まれた「雲松斎」は玄竜の号(現在のペンネームにあたる)です。碑は玄竜に師事した多くの子弟により、明治16年(1883年)に建立されたものです。
(注釈)「寿蔵碑」は存命中に建てる墓のことです。
歴史名勝No67「井上鶯暁(いのうえおうぎょう)の筆塚」
井上鶯暁の筆塚
筆塚の位置
霞野神社の鳥居の近く(矢印の所)にあります。
井上家は大宮寺良順(高麗家第43代)の三男である治兵衛が開いた家で、鶯暁は八代目にあたります。鶯暁は文化12年(1815年)の生まれで、通称を邦三郎といい、幕末に姥田を知行していた旗本・逸見氏の名主役を務めていました。寺子屋に関わる文書や碑文から、多くの子弟を教授したことがわかります。また、各方面の文士と広く交流しており、茶道に通じ、女影村の村会議員も務めていました。霞野神社境内にある碑は、明治12年(1879年)に多くの子弟たちにより建立されたものです。
歴史名勝No68「岡野純昭(おかのじゅんしょう)の筆塚」(管城餘照碑(かんじょうよしょうひ))
岡野純昭の筆塚(管城餘照碑)
筆塚の位置
碑は高萩院跡(歴史名勝No.54)にあります。
幕末から明治にかけて、寺子屋を開き子弟を教授した岡野純昭の筆塚です。天保4年(1833年)、大宮寺明純(高麗家第55代)の第二子(高麗大記の弟)として生まれた純昭は、漢学を学び国学を修め書道にも通じていました。
文久元年(1861年)に高萩院二十一世である岡野教全の養嗣子となってから寺子屋を開き、村の子弟を教授するようになりました。明治元年(1867年)に廃仏毀釈で高萩院は廃寺となってしまいました。その後、純昭は明治9年(1876年)に小学校の教師になりました。碑は、純昭が50歳を迎えた明治15年(1882年)頃に建てられたと思われます。
歴史名勝No69「高麗大記(こまだいき)の筆塚」
高麗大記の筆塚
高麗大記 (高麗神社所蔵)
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高麗家第56代の当主である高麗大記は、文政9年(1826年)に生まれました。国学、漢学を学び、特に国学は平田鉄胤を師として研究を行いました。幕末、父である高麗明純から寺子屋を継ぎ、多くの子弟に教授しました。明治維新後に学制が発布されると、高麗小学校の初代校長を努め、学校教育の創成期に多大な貢献を果たしました。大記の日記である「桜陰筆記抄」は、当時の暮らしを色彩豊かに伝えてくれる資料です。碑は明治14年(1881年)に建立されたもので、碑文は徳川家斉(第11代将軍)の子、松平斉民(旧美作津山藩主)が揮毫したものです。
碑は国指定重要文化財高麗家住宅(歴史名勝No.26)の南側、枝垂れ桜のそばにあります。
歴史名勝No70「新井定季(あらいさだすえ)の筆塚」
新井定季の筆塚
筆塚の位置
矢印の所が筆塚です。水天の碑(歴史名勝No.12・青色丸印)の近くにあります。
新井定季は名主を務めるなど台村に貢献した人物です。隠居後、嘉永・安政年間(1848〜1860年)に、ここ台村で塾を開き多くの子弟の教育に専念しました。塾は、父の淀八、長男の重左衛門が助手として手伝っていました。碑は明治29年(1896年)に建てられました。碑に刻まれた「筆塚」の字は、勝海舟の筆によるものです。
「寺子屋」は年齢や要望に合わせ、個別に教えることが多かったと言われます。また、近在の子どもたちの読み書きといった初等教育だけでなく、国学や漢学、書など学問の教授を行う場でもありました。師匠たちもまた、別の師匠に教えを受けるなど、その師弟関係、交友関係は非常に広範囲に及んでいました。師匠たちは「学びの場」を支えるだけでなく、地域の文化人、知識人としての顔を持っていたと言えます。
歴史名勝No24「高浜虚子句碑」
高浜虚子句碑
高浜虚子 (虚子記念文学館所蔵)
(注釈)人物写真の無断転用はご遠慮ください。
聖天院山門前の右手に「山寺は 新義真言 ほととぎす」と詠んだ高浜虚子の句碑があります。高浜虚子は明治7年(1874年)に愛媛県松山市で生まれました。中学生時代に学友を通じて正岡子規と知り合い、その影響を強く受けました。故郷松山で創刊された「ホトトギス」に携わり、後に編集・発行を担うようになります。虚子は小説の執筆に注力し自身の作品を「ホトトギス」に発表していましたが、やがて俳句の世界に復帰し、「花鳥諷詠」という俳句理念を唱え、精力的に作品を生み出すだけでなく、多くの俳人を指導しました。
俳句誌「ホトトギス」は、現在でも刊行されています。
歴史名勝No28「野田宇太郎詩碑」
野田宇太郎詩碑
野田宇太郎
(野田宇太郎文学資料館提供)
(注釈)人物写真の無断転用はご遠慮ください。
国指定重要文化財高麗家住宅(歴史名勝No.26)の北側に、野田宇太郎の「家系図」という詩を刻んだ碑があります。野田宇太郎が、高麗神社の宮司を務める高麗家に伝わる家系図(市指定文化財高麗氏系図)に着想を得て書かれた作品です。
野田宇太郎は明治42年(1909年)、福岡県三井郡立石村(現在の福岡県小郡市)に生まれました。昭和5年から詩人としての活動をはじめ、「旅愁」(昭和17年出版)がベストセラーになりました。昭和26年の「新東京文学散歩」に始まる一連の作品は、文学作品の舞台を実地踏査し紀行文に著す「文学散歩」という分野を拓きました。
また、野田の出版編集者としての功績も大きなものでした。多くの作家たちと交流を持ち、三島由紀夫や幸田文を見出したことでも知られています。
高浜虚子や野田宇太郎のほか、民俗学者である折口信夫が「やまかげに ししぶえおこる ししぶえは こまのむかしを おもえとぞひびく」、歌人加倉井秋をは「引き獅子や 昏れをうながす 笛と風」と詠い、坂口安吾は昭和26年12月号の文藝春秋に「高麗神社の祭りの笛」を書くなど、文学者や歌人は高麗を題材に作品を残しています。
高麗のもつ歴史が創作意欲をかき立てるのでしょうか。










更新日:2026年04月28日