地域物語 第21編「新たな時代を切り拓く−開拓の歴史−」
日高市の歴史の1ページには「開拓の歴史」があります。江戸時代の新田開発、さかのぼれば古代高麗郡の建郡も弥生時代以降人の住んだ痕跡の少ない地を耕作地にしたのでしょう。
昭和に入り、市の東部では食料増産のため新たな土地を開墾し耕地を増やしていきました。今のようにブルドーザーやトラクターのない時代、木を1本、1本人力で抜き、ひとくわ、ひとくわ耕していったことは想像を超えた苦労の連続だったでしょう。
市内には開拓の記念碑が4箇所残っています。刻まれた文言に当時の苦労を垣間見ることができます。
歴史名勝No62「耕地整理竣工記念碑」 (栄新田)
昭和5年、鶴ヶ島町屋耕地整理組合の延長として高萩村外二ヶ村耕地整理組合が発足します。昭和9年から後に8百町歩となる開墾が始まります。初代組合長は高麗川村長だった加藤与之吉でした。開墾事業は昭和31年に完了しました。
作つけは葉ものを中心に、太白、紅赤などの甘藷(サツマイモ)、陸稲、ウリ、キュウリ、ナスなども手掛け東京市場へ出荷しました。西瓜(スイカ)は比較的出来が良く「高麗鶴」のステッカーを貼って出荷しました。
碑文面
歴史名勝No63「開拓記念碑」 (高麗川新宿)
もとは高萩村外二ヶ村耕地整理地内でしたが、陸軍による高萩飛行場の接収により東西に別れたため、西側が高麗川新宿地区となっています。昭和9年入植が開始されました。陸稲から開始され、小麦、甘藷(サツマイモ)、西瓜(スイカ)などを東京市場へ出荷しました。心のより所となる報徳神社は当初石碑でしたが、昭和25年現在の社殿となり、昭和32年現在の地になりました。
開拓記念碑には、昭和9年以来の開拓の歴史、報徳神社の由来などが刻まれています。
歴史名勝No64「開拓碑」 (旭ケ丘)
昭和20年8月、終戦後緊急食料増産対策として開拓地に開放されました。面積は六十余万坪に及びます。12月に高萩飛行場開拓団を結成し、高萩村、高麗川村の次男、三男および復員軍人、被災者などが飛行場西側から入植を開始しました。
作つけは馬鈴薯(ジャガイモ)、トウモロコシ、甘藷(サツマイモ)、粟、南瓜(カボチャ)などでした。
昭和23年開拓団を旭ヶ丘開拓農協に改組し、昭和27年、国の開拓完了検査に合格しました。昭和44年開拓農協は解散しました。昭和28年伊勢神宮から勧請した旭ヶ丘神社を創建、その地に開拓碑が建っています。
歴史名勝No65「開拓十周年記念碑」 (高富)
高萩村、水富村、柏原村にわたる民有林164町あまりを国が買収し、昭和22年三村の次男、三男44戸で開拓団を組織します。旧村名にちなみ高富ヶ原と命名します。昭和23年に七峰帰農組合員が加わり開拓農業共同組合を設立しました。昭和32年3月開拓成功検査を受けました。
当初の作付けは陸稲、甘藷(サツマイモ)、西瓜(スイカ)、馬鈴薯(ジャガイモ)、ウドなどでした。
碑文
更新日:2025年04月17日