地域物語 第18編「徳川秀忠、家光の忠臣が開いた長松寺」
ー長松寺と三枝氏歴代の墓ー
女影にある三枝山長松寺は徳川秀忠、家光に仕えた三枝守恵が開基したとされています。墓地には三枝氏歴代の墓所があります。
歴史名勝No57「三枝氏歴代の墓」
三枝氏は甲斐武田氏の旧臣で、武田氏滅亡後は父守吉の代から家康に仕えました。守吉の子が守重(のち守恵通称宗四郎)で、大阪の陣に従軍し2代将軍秀忠の信頼厚く、3代将軍家光にも仕え、寛永3年(1626年)に従五位土佐守に叙任されました。最終的には御書院番頭として6千石の知行を得ます。
慶安4年(1651年)家光の死去に際して57歳で殉死しました。日光輪王寺の釈迦堂にも墓があります。 新編武蔵風土記稿には江戸の旗本屋敷が整備される寛永年間までこの地に三枝氏屋敷が存続していたことを推定させる記事があり、墓所の宝篋印塔の年代から三枝氏が武田家滅亡から徳川家に仕えるまでの数年間、この地に居住していたと推測できます。 参考文献:寛政重修諸家譜
周辺の文化財
長勝寺門前の石造物
9基の石造物が並んでいます。この庚申塔は延宝8年(1680年)造立と市内でも古い石造物です。体内の三尸という虫が閻魔様に日頃の罪状を告げないよう、三猿が彫られています。
大山石尊大権現 嘉永2年(1849年)
神奈川県大山阿夫利神社は雨乞い、農耕の神として信仰され、各地で講という集まりを作り参拝していました。
長勝寺南側交差点の石造物群
道路拡張などで集められた馬頭観音や庚申塔が並んでいます。年代は一番左の庚申塔が元禄14年(1701年)と古く、中程の馬頭観音が明治29年(1896年)で一番新しい造立です。
倶利伽羅不動
宝永7年(1710年)、向郷神社境内にあります。不動明王の右手の剣に左手の竜が巻き付き剣先を飲み込もうとして炎に包まれています。毒を破る知恵の剣です。
更新日:2024年03月21日