地域物語 第18編「徳川秀忠、家光の忠臣が開いた長松寺」

更新日:2024年03月21日

 

長松寺ちょうしょうじ三枝氏歴代さいぐさしれきだいの墓ー

ちょうしょうじ

女影にある三枝山長松寺は徳川秀忠、家光に仕えた三枝守恵もりしげ開基かいきしたとされています。墓地には三枝氏歴代の墓所があります。

歴史名勝No57「三枝氏歴代の墓」

さいぐさしれきだいのはか

三枝氏は甲斐武田氏の旧臣で、武田氏滅亡後は父守吉もりよしの代から家康に仕えました。守吉の子が守重もりしげ(のち守恵もりしげ通称宗四郎)で、大阪の陣に従軍し2代将軍秀忠の信頼厚く、3代将軍家光にも仕え、寛永3年(1626年)に従五位土佐守とさのかみに叙任されました。最終的には御書院番頭ごしょいんばんがしらとして6千石の知行ちぎょうを得ます。

慶安4年(1651年)家光の死去に際して57歳で殉死じゅんししました。日光輪王寺にっこうりんのうじ釈迦堂しゃかどうにも墓があります。 新編武蔵風土記稿には江戸の旗本屋敷が整備される寛永年間までこの地に三枝氏屋敷が存続していたことを推定させる記事があり、墓所の宝篋印塔ほうきょういんとうの年代から三枝氏が武田家滅亡から徳川家に仕えるまでの数年間、この地に居住していたと推測できます。 参考文献:寛政重修諸家譜

周辺の文化財

ちょうしょうじこうしんとう

長勝寺門前の石造物

9基の石造物が並んでいます。この庚申塔こうしんとうは延宝8年(1680年)造立と市内でも古い石造物です。体内の三尸さんしという虫が閻魔様えんまさまに日頃の罪状を告げないよう、三猿が彫られています。

おなかげかみくおおやまどうろう

大山石尊大権現おおやませきそんだいごんげん 嘉永2年(1849年)

神奈川県大山阿夫利おおやまあぶり神社は雨乞い、農耕の神として信仰され、各地でこうという集まりを作り参拝していました。

せきぞうぶつぐん

長勝寺南側交差点の石造物群

道路拡張などで集められた馬頭観音ばとうかんのん庚申塔こうしんとうが並んでいます。年代は一番左の庚申塔が元禄14年(1701年)と古く、中程の馬頭観音が明治29年(1896年)で一番新しい造立です。

くりからふどう

倶利伽羅不動くりからふどう

宝永7年(1710年)、向郷むかいごう神社境内にあります。不動明王ふどうみょうおうの右手の剣に左手の竜が巻き付き剣先を飲み込もうとして炎に包まれています。毒を破る知恵の剣です。

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るーとあんない

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