地域物語 第16編「日光街道杉並木と高萩宿」

更新日:2024年03月21日

歴史名勝No52「日光脇往還」

八王子千人同心はちおうじせんにんどうしんも通った日光脇往還にっこうわきおうかん

にっこうわきおうかん

日光脇往還は千人同心往還とも呼ばれ、江戸時代に八王子千人同心が日光東照宮にっこうとうしょうぐうの防火と警備にあたるため使われるようになり整備された街道かいどうです。新編武蔵風土記稿しんぺんむさしふどきこう「高萩村」には、「当村ハ八王子ヨリ日光ヘ通フ往還ノ宿驛ニシテ」とあります。

八王子から6番目の 宿場しゅくば「高萩宿」は人馬継立場じんばつぎたてば(人馬を交代して荷物を運ぶための継ぎ立て地)でした。 甲源一刀流こうげんいっとうりゅうの比留間半蔵、国造父子は千人同心株を持っていたので、同心として日光勤番にっこうきんばんも務めていました。

杉並木については松平伊豆守信綱まつだいらいずのかみのぶつなご領分の節、松は相模国さがみのくに一宮の平塚宿から、杉は多摩郡たまぐん御嶽山みたけさんから、くぬぎは上野国赤城こうずけのくにあかぎから取り寄せ植えたとあります。

八王子千人同心

徳川家康が関東に入府した際、甲州こうしゅう(山梨県)側からの守りとして八王子に同心を置いたのが始まりです。世の中が落ち着くと、家康が祀られた日光東照宮の防火と警備として、境内や町内の見回り、消火活動が役目となりました。

八王子から拝島へ向かい、松山、佐野を経る3泊4日の行程でした。八王子から最初の宿泊地はお隣、坂戸宿でした。この役目は慶応4年(1868年)まで続きました。

歴史名勝No53「旧高萩郵便局」

きゅうたかはぎゆうびんきょく

高萩宿の中ほどに、「日高郵便局」と 書かれた建物があります。明治12年(1879年)12月1日に設置された「高萩」郵便局の建物が当時の佇まいを残しながら現存しています。「日高郵便局」となったのは昭和33年4月1日です。所有者の人が大切に保存されています。

石尊大権現と金毘羅大権現

せきそんだいごんげん

石尊大権現と金毘羅大権現の石碑

高萩宿の通りの東側、JR川越線の高架橋の北側に、石尊大権現せきそんだいごんげん金毘羅こんぴら大権現の石碑が建っています。平成29年に地元有志により再建されました。

石尊大権現は神奈川県大山おおやま阿夫利あぶり神社へ参拝する大山講おおやまこうで建てられるものです。安政5年(1858年)とあります。

金毘羅大権現は慶応2年(1866年)に建てられました。

平成29年の再建の際、金毘羅大権現碑等再建並びに整備委員会によって、この石碑や高萩宿についての詳細な記念誌が作られ、高萩の歴史の記録として大変貴重な 資料 となっています。

歴史名勝No54「高萩院(こうしゅういん)跡」

こうしゅういんあと

JR川越線桜口ロータリーから南西に降りたところに、高萩院こうしゅういんという修験寺院跡しゅげんじいんあとがあります。狭山市の笹井観音堂ささいかんのんどうの配下で不動明王ふどうみょうおうを祀っていました。22世の岡野純昭が寺子屋てらこやを開き多くの師弟を育てたことを称える石碑が建っています。

明治元年(1868年)の神仏分離令しんぶつぶんりれいにより、住持じゅうじ=住職は駒形神社の神官となり、高萩院は廃寺となりました。現在残っているのは、当時池だったところです。本堂は川越線の線路の方に広がっていたそうです。

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