地域物語 第15編「もののふが駆け抜けた鎌倉街道」

更新日:2024年03月21日

歴史名勝No47「女影ヶ原古戦場跡」

おなかげはらかっせんず

女影原合戦のようす(新井孝重氏画)

中先代なかせんだいの乱

建武2年(1335年)、鎌倉幕滅亡時の第14代執権しっけんだった北条高時ほうじょうたかときの息子である時行ときゆきの軍が鎌倉幕府再興さいこうをはかり足利軍と戦ったのが「女影ヶ原古戦場おなかげがはらこせんじょう」です。諏訪頼重すわよりしげと共に信濃しなので挙兵した北条時行軍は、建武政権軍けんむせいけんぐんの渋谷、岩松軍と鎌倉街道が通る女影ヶ原で戦となりました。時行軍は勝利、その後小手指ヶ原こてさしがはら(所沢市)、分倍河原ぶばいがわら(東京都府中市)の戦にも勝利し、一時鎌倉を奪還しました。

この一連の戦を「中先代なかせんだいの乱」と言います。

おなかげはらこせんじょうず

新編武蔵風土記稿 女影古戦場之図

おなかげはらこせんじょうあとひ

霞野神社

もとは村社そんしゃである諏訪神社がありました。明治43年、女影地区にあった諸社を諏訪神社に合祀し霞野かすみの神社と称しました。

当社は養蚕ようさんの守護として信仰され、養蚕の最盛期には境内が人波で埋まったと言います。

歴史名勝No48「鎌倉街道碑」

かまくらかいどうひ

「いざ鎌倉」の道−鎌倉街道−

鎌倉幕府は兵馬を迅速に集めるため街道整備を行いました。これがのちに鎌倉街道と呼ばれる伝承路で、埼玉県内には主要な幹線として「中道なかつみち」「上道かみつみち」が通っています。日高市内を南北に通っているのは群馬県藤岡市方面から鎌倉へ向かう「上道」です。 

東武越生線「西大家駅」西側から、県道日高川越線「女影おなかげ」交差点を南へ向かい、国道407号線「鎌倉街道」交差点を横切り狭山市方面へと続いています。

この街道を後世に伝える記念碑が平成3年11月7日に第二小畔川のたもとに建てられました。

歴史名勝No49「霞野神社本殿」

かすみのじんじゃほんでん

霞野神社本殿かすみのじんじゃほんでん(市指定文化財(建造物))

江戸時代末の建築と考えられています。身舎もやの前方にひさしを付けた一間社流いっけんしゃながつくりで、屋根は柿葺こけらぶきです。柱の上の木組みにはばく、獅子頭の彫刻が施されています。

かすみのじんじゃししまいしょどうぐ

霞野神社獅子舞諸道具かすみのじんじゃししまいしょどうぐ(市指定有形民俗文化財)

豊作ほうさく雨乞あまごいを祈願する獅子舞は昭和40年を最後に奉納されていませんが、獅子頭、天狗面、オカメ面、ほら貝などの諸道具が氏子によって保管されています。

歴史名勝No50「駒形神社本殿」

こまがたじんじゃはいでん

駒形こまがた神社

「駒形は高麗方に通じる」と社伝にあり、創建と高麗人の深いかかわりが感じられます。

こまがたじんじゃほんでん

駒形神社本殿こまがたじんじゃほんでん(市指定文化財(建造物))

本殿は、江戸時代末の作と考えられます。向拝柱ごはいばしらに登り龍、下り龍が彫られています。

歴史名勝No51「北竹ノ内の板碑」

きたたけのうちのいたびえんけい

高さ2メートル21センチメートルで四本木の板碑に次ぐ大碑です。磨耗が激しく主尊の阿弥陀如あみだにょらい一尊と連座れんざの一部を残すのみで、造立年代は不明ですが、大きさや形態から13世紀半ば以降と考えられます。

鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡あづまかがみ」には、承久3年(1221年)六月十四日、京都宇治橋合戦うじばしかっせんに武蔵の女影四郎おなかげしろう太郎たろうの記述があります。この板碑の造立時期に女影を本拠とする武士がいたようです。

きたたけのうちのいたび

霞野神社周辺の文化財

たかすみのじんじゃまえどうひょう

道標

霞野神社参道前の鎌倉街道は、国道407号「鎌倉街道」交差点方面と中沢方面に分岐しています。この分岐地点に文化8年(1811年)に建てられた道標があります。

右 阿ふぎ 町屋(扇町屋) 八王子道

左 入間川 所沢みち

しょうとくたいし

「聖徳太子」文久3年(1863年)

最古の木造建築とされる奈良県法隆寺と聖徳太子の関係から、大工さんは聖徳太子を信仰の対象としました。台座には「木挽中こびきちゅう」とあり、日高市内および川越市、狭山市、飯能市の大工51人の名前が刻まれています。

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