地域物語 第15編「もののふが駆け抜けた鎌倉街道」
歴史名勝No47「女影ヶ原古戦場跡」
女影ヶ原合戦のようす(新井孝重氏画)
中先代の乱
建武2年(1335年)、鎌倉幕府滅亡時の第14代執権だった北条高時の息子である時行の軍が鎌倉幕府再興をはかり足利軍と戦ったのが「女影ヶ原古戦場」です。諏訪頼重と共に信濃で挙兵した北条時行軍は、建武政権軍の渋谷、岩松軍と鎌倉街道が通る女影ヶ原で戦となりました。時行軍は勝利、その後小手指ヶ原(所沢市)、分倍河原(東京都府中市)の戦にも勝利し、一時鎌倉を奪還しました。
この一連の戦を「中先代の乱」と言います。
新編武蔵風土記稿 女影古戦場之図
霞野神社
もとは村社である諏訪神社がありました。明治43年、女影地区にあった諸社を諏訪神社に合祀し霞野神社と称しました。
当社は養蚕の守護として信仰され、養蚕の最盛期には境内が人波で埋まったと言います。
歴史名勝No48「鎌倉街道碑」
「いざ鎌倉」の道−鎌倉街道−
鎌倉幕府は兵馬を迅速に集めるため街道整備を行いました。これがのちに鎌倉街道と呼ばれる伝承路で、埼玉県内には主要な幹線として「中道」「上道」が通っています。日高市内を南北に通っているのは群馬県藤岡市方面から鎌倉へ向かう「上道」です。
東武越生線「西大家駅」西側から、県道日高川越線「女影」交差点を南へ向かい、国道407号線「鎌倉街道」交差点を横切り狭山市方面へと続いています。
この街道を後世に伝える記念碑が平成3年11月7日に第二小畔川のたもとに建てられました。
歴史名勝No49「霞野神社本殿」
霞野神社本殿(市指定文化財(建造物))
江戸時代末の建築と考えられています。身舎の前方に庇を付けた一間社流れ造で、屋根は柿葺です。柱の上の木組みには獏、獅子頭の彫刻が施されています。

霞野神社獅子舞諸道具(市指定有形民俗文化財)
豊作と雨乞いを祈願する獅子舞は昭和40年を最後に奉納されていませんが、獅子頭、天狗面、オカメ面、ほら貝などの諸道具が氏子によって保管されています。
歴史名勝No50「駒形神社本殿」
駒形神社
「駒形は高麗方に通じる」と社伝にあり、創建と高麗人の深いかかわりが感じられます。
駒形神社本殿(市指定文化財(建造物))
本殿は、江戸時代末の作と考えられます。向拝柱に登り龍、下り龍が彫られています。
歴史名勝No51「北竹ノ内の板碑」
高さ2メートル21センチメートルで四本木の板碑に次ぐ大碑です。磨耗が激しく主尊の阿弥陀如来一尊と連座の一部を残すのみで、造立年代は不明ですが、大きさや形態から13世紀半ば以降と考えられます。
鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」には、承久3年(1221年)六月十四日、京都宇治橋合戦に武蔵の女影四郎、太郎の記述があります。この板碑の造立時期に女影を本拠とする武士がいたようです。
歴史名勝No61「女影時計台」
女影時計台は昭和3年9月、昭和天皇即位の御大典記念として建設されました。以来長きにわたり時を告げてきました。道路拡幅のため昭和51年9月、御即位50年を記念して再建され、女影交差点のシンボルとして現在も時を刻んでいます。
霞野神社周辺の文化財
道標
霞野神社参道前の鎌倉街道は、国道407号「鎌倉街道」交差点方面と中沢方面に分岐しています。この分岐地点に文化8年(1811年)に建てられた道標があります。
右 阿ふぎ 町屋(扇町屋) 八王子道
左 入間川 所沢みち

「聖徳太子」文久3年(1863年)
最古の木造建築とされる奈良県法隆寺と聖徳太子の関係から、大工さんは聖徳太子を信仰の対象としました。台座には「木挽中」とあり、日高市内および川越市、狭山市、飯能市の大工51人の名前が刻まれています。
更新日:2025年04月17日