地域物語 第14編「平沢が生んだ偉人と文化財」

更新日:2024年03月21日

歴史名勝No42 「四本木の板碑」

板碑いたびの名称は「板石塔婆いたいしとうば」、「青石塔婆あおいしとうば」などがあります。13世紀から16世紀(鎌倉時代から室町時代)にかけて約400年間造られました。市内でも200基以上が確認されています。 造立の目的は死者の菩提を弔う追善ついぜん供養と、死後の供養を生前に行い功徳を得たり、家族の繁栄を祈願する逆修ぎゃくしゅう供養があります。

しほぎのいたび
いたびかいせつぶん

四本木の板碑は、高さ266センチメートル、幅67センチメートルをはかり市内で最も大きな板碑です。緑泥片岩りょくでいへんがんが用いられています。主尊は阿弥陀如来あみだにょらい(キリーク)で、 正和3年(1314年)銘が刻まれています。22人の連名で祈願していますが、このように大勢で建てるものを結衆板碑けっしゅういたびと言います。

四本木の板碑の建つ場所は原宿村と新堀村の境の6差路に面し、南北に越生方面から飯能方面に向かう八王子道が、東西に新堀橋方面から原宿区公会堂方面に向かう道などが交差する人々の往来に目印となる場所に建っていました。絵図にも板碑が描かれています。今では細い道の辻ですが、当時はこちらが主要道でした。

歴史名勝No43「白銀観音」

しろがねかんのん

白銀平しろがねだいらは昭和41年、埼玉県立奥武蔵自然公園の一部として休息所を設けた事に始まる関東平野を一望できる風光明媚な名所です。この白銀平へ向かう道沿いに白銀観音しろがねかんのんがあります。もともとふもと栃久保観音塚とちくぼかんのんづかにありましたが、ゴルフ場建設のため現在の位置に移っています。

紀年銘は天和2年(1682年)8月15日で日高では古い石造物です。法華経の経典を一万弁読誦どくずしたこと、人々の安寧が書かれています。梵字ぼんじ阿弥陀如来あみだにょらいです。

歴史名勝No44「天神社」

てんじんじゃ

富士山ふじやま山麓にある天神社てんじんしゃは平沢地区の鎮守で、学問の神菅原道真公が祀られています。 天神社にある古い獅子頭は日照りが続くとき、富士山に持っていき祝詞のりとを上げると雨が降り万物を潤すという雨乞あまごいの獅子頭と言われています。

歴史名勝No45「富士山」

ふじやま

白銀平の北側には山頂に浅間神社の祠がある富士山ふじやまがあります。この祠も天和元年(1682年)と古い紀年が刻まれています。江戸時代前期に遡る富士山信仰、観光の名所となった白銀平と、平沢の人々の熱意が今に伝わります。

歴史名勝No46「高林謙三」

高林謙三たかばやしけんぞうが考案した高林式茶葉租揉機たかばやししきちゃばそじゅうきの揉み手の原理は、現在の機械にも受け継がれています。茶葉生産を手仕事から機械化する発明を行い、茶葉の生産量を増やし、茶葉の普及と茶業界の発展に大きく貢献した人物です。

たかばやしけんぞう
たかばやししきせいちゃき

高林式製茶機たかばやししきせいちゃき

日高市立高麗郷民俗資料館(梅原2番地)に展示されています。ぜひご覧ください。

高林謙三は、天保3年(1832年)入間郡平沢村(現日高市)に小久保忠吾ときくの長男として生まれます。弘化4年(1847年)毛呂本郷の権田直助ごんだなおすけの塾に入門し医学を学びます。安政3年(1856年)25歳で入間郡小仙波村(現川越市小仙波)で 医院を開業し、文久3年(1863年)には川越藩侍医となります。

明治2年(1869年)38歳のとき医業の傍ら、茶園を開いて茶の生産を始めますが、手もみ製茶の限界を感じ製茶機械の発明を構想します。試行錯誤の末、 明治18年(1885年)8月14日特許第2号「生茶葉蒸器械なまちゃばむしきかい」、特許第3号「焙茶器ほうじちゃき」、特許第4号「製茶摩擦器械せいちゃまさつきかい」を、11月10日特許第60号「改良扇風機」を 取得します。近代特許とっきょ制度での民間人初の特許取得でした。 明治19年(1886年)3月20日特許第150号「茶葉揉念機ちゃばじゅうねんき」を取得し、蒸しから製茶仕上げまで出来る製茶機を完成させます。その後幾多の苦難の末、明治31年(1898年)12月22日(67歳)特許第3301号「茶葉粗揉機ちゃばそじゅうき」を取得し、高林式製茶機を完成させました。

謙三マップ

市内には高林謙三を伝える碑があります。北平沢天神社入口、北平沢交差点近く、JR 高麗川駅前、そして銅像が日高市生涯学習センター入口で来館者を迎えるように立っています。いつの時代も 高林謙三を顕彰する気持ちが各所に残る碑となっています。

たかばやしけんぞうひ

天神社入口西側

たかばやしけんぞうひ

高麗川駅前ロータリー

桑田衡平−近代日本医学の発展に貢献−

くわたこうへい
たかばやしくわたせいたんち

北平沢交差点を西へ入った生家のあったあたりにあります。

桑田衡平くわたこうへいは高林謙三の弟で、天保7年(1836年)に生まれます。謙三と同じく毛呂本郷の権田直助の塾に入門し医学を学び、文久2年(1862年)26歳で江戸に医院開業します。しかし、よりレベルの高いアメリカやイギリスの医学を学ぶためイギリス人医師のいる病院に勤めます。

明治3年(1870年)アメリカの本を翻訳した「袖珍薬説」を出版、726種類もの新しい薬や病気について書きました。 続く明治6年(1873年)、アメリカのハルンホルンの本を翻訳し「内科摘要」を出版。日本ではわからなかった病気の治し方や予防法が紹介されます。インフルエンザ、糖尿病など今日使われている病名の日本名を命名しました。 その後も明治9年(1876年)にイギリスの本を翻訳した「病理新説」、明治12年(1879年)「医戒」、明治26年(1893年)「徳育集成」、明治27年(1894年)「宗鏡録要抄」と次々に出版し、我が国の医学の発展に多大な功績を残しました。

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