地域物語 第9編「高麗びとの聖地−大寺廃寺−」
歴史名勝No19「大寺廃寺」
市指定文化財となっている東西3間、南北3間の礎石(柱を置く石)がひっそりと来訪者を出迎えます。
大寺廃寺 東西3間、南北3間の礎石建物跡(市指定文化財)
大寺廃寺は8世紀前半に建立され、毛呂山町との境となる毛呂丘陵の標高 90から100メートルにあります。現在も上大寺、下大寺の地名として残っています。現地踏査や確認調査の結果、礎石を伴う建物跡5棟、中世の遺構1棟を検出しました。 創建は復弁8葉軒丸瓦が平城京の瓦と類似することから8世紀前半と考えられています。 この瓦の出土から大寺廃寺の建立に中央政府との関りを持つ人物が関わっているとも考えられています。坩堝に付着した金属にはヒ素の含有量が高く、高い鋳造技術を持った工人がいたことも分かりました。
大寺廃寺出土遺物
大寺廃寺出土遺物(市指定文化財)
遺物は軒丸瓦、軒平瓦などのほか鬼瓦も見られ、 軒に飾る青銅製風鐸や坩堝なども出土しています。
鬼瓦

青銅製風鐸
塔の屋根の角に付けられた飾りです
歴史名勝No20「高岡窯跡」(埼玉県選定重要遺跡)
古代高麗郡の窯跡 −高岡窯跡−
高麗川左岸、日和田山麓の高岡地区に平安時代の瓦陶兼業窯である高岡窯跡があります。昭和30年に東京大学古代史談話会によって窯跡1基が調査されました。窯は半地下式無階無段の登り窯で、全長約7メートル、最大幅1.5メートル、確認面からの深さ70センチメートルをはかります。時期は9世紀第4四半期と考えられ、須恵器の坏、椀などの供膳具、瓦類が焼かれていました。
軒先を飾る軒平瓦の同文が武蔵国分寺や坂戸市勝呂廃寺から出土しており、両寺院との強い結びつきが伺えます。また当窯跡で焼かれた瓦が高麗川駅西側の常木久保遺跡、武蔵高萩駅北側の拾石遺跡からも出土しており、高麗郡内の集落へ流通していることも明らかとなりました。現在は畑に埋め戻されています。周辺には他にも窯跡が眠っていると考えられます。
今はなき古代高麗郡の寺院−高岡廃寺−
高岡廃寺は、聖天院の北西、日和田山麓丘陵緩斜面に位置していた古代寺院跡です。小字も「ケシボウズ」と言います。昭和50年にゴルフ場建設に伴う発掘調査が行われ、建物跡4棟、方形ピット遺構、石組遺構、特殊遺構などが検出されました。出土瓦から8世紀中葉に創建され、11世紀初頭まで続いていたと考えられます。この寺院は創建時期が高麗氏系図に見られる、天平勝宝3年(751年)に高麗若光
高岡廃寺出土遺物
高岡廃寺出土遺物
単弁六葉軒丸瓦
多嘴壺
周辺の文化財
道祖神
清流地区にあるこの道祖神は、弘化2年(1845年)に建てられました。道標も兼ねており、右面に「毛呂、おごせ」と彫られています。行路の安全も守ってくれる神様です。
かつてゴルフ場が出来るまでは、毛呂、越生方面と飯能方面を結ぶ「飯能道」が通り、道の分岐にこの道祖神があります。
道祖神の前の道が毛呂、越生へ抜けるかつての峠道です。山上に高岡廃寺がありました。
左側の道標は昭和7年(1934年)
正面 越生□□ヲ経二テ毛呂に至ル約8000米
裏面 坂戸道 新堀ニシテ約1000米
吾野道 清瀧ニシテ約100米
と彫られています。
右側は天保2年(1831年)の馬頭観音
庚申塔 文化5年(1808年)
正面に青面金剛が彫られ邪気を踏んでいます。下段に三猿が彫られています。
左手には法輪、弓、右手には刀、矢を持っています。
更新日:2024年03月21日