地域物語 第8編「高麗の宿を歩く」

更新日:2024年03月21日

歴史名勝No15「諏訪社」

すわしゃ

諏訪社すわしゃ(旧拝殿と奥に見える新拝殿)

慶長2年(1597年)、高麗本郷こまほんごうにあった陣屋じんやが火災に遭います。もともと場所が狭かったこともあり、再建のため栗坪くりつぼ梅原うめはら村の地へ移ります。

天和、貞享のころの記録では、高麗の宿こまのしゅくで売られていたものは、農家で必要な縄むしろ、茶、炭、紙、筆墨ひつぼく、きせる、ぞうり、あさきれ、木綿きれ、とうふ、油、茶わんなどの日用品でした。蝋燭ろうそく下駄げた、割り箸、ござ、なら漬、美濃紙などは川越まで買いに行きました。

馬匹改帳ばひつあらためちょうによると、高麗本郷村は84戸の家で79頭の馬を飼っていました。伝馬飛脚てんまひきゃくの覚には、陣屋の使いで江戸、川越や青梅に伝馬、飛脚のためたびたび出されたことが書いてあります。

元文2年(1737年)に天領ではなくなったため、陣屋は廃止されました。

高麗の宿と呼ばれる

こまのしゅく

高麗の宿

しょうわのししまい

昭和の頃の高麗の宿(栗坪、梅原)諏訪社の獅子舞風景

高麗の宿から野宮神社へ向かう道中にある庚申塔

ののみやこうしんとう

庚申塔 宝暦13年(1763年)

総合福祉センター交差点(かつてはこの辻は坂戸入口さかどいりぐちと呼ばれていた)から野々宮神社ののみやじんじゃ方面に曲がると、庚申塔こうしんとうがあります。正面には青面金剛しょうめんこんごう、その下には三猿が掘られています。左面には高麗郡野々宮村講中と書かれています。

庚申塔の解説は、地域物語第7編「巾着田と高麗川の生活」中にあります。

歴史名勝No16「野々宮神社奉納相撲場」

ひだかと相撲すもう(1)

日高と相撲の歴史は古く、奈良時代ならじだい武蔵守むさしのかみに3度任命され、従三位じゅさんみの位までなる高麗郡出身の高麗福信こまふくしんは相撲が強かったと続日本紀しょくにほんぎに記述されています。

ののみやじんじゃほうのうすもうば

野々宮地区にある野々宮神社には相撲場すもうばが残っています。相撲興業すもうこうぎょうや、天保元年の子ども相撲も開催されていたなど多くの記録が残っています。今でも子ども相撲が行われています。

いたばんづけ

相撲興業の板番付(日高市指定文化財)

こどもすもうもんじょ

天保元年(1830年)子ども相撲を開催したところ好評だったので、翌年に相撲年寄の木村庄之助から子ども相撲の免状が発行されました。(日高市指定文化財)

ひだかと相撲すもう(2)大鳴門裏右衛門おおなるとうらえもん

江戸時代には日高市内栗坪地区出身の力士「大鳴門浦右衛門」が文政元年(1818年)に栗坪の勝音寺で勧進相撲かんじんずもうを開催しています。当時の番付表や裏右衛門の手鏡が残っています。

ばんづけひょう

番付表

いたばんづけ

番付の版木

歴史名勝No.17「比留間半蔵寿碑」

梅原の比留間家が伝えていた甲源一刀流こうげんいっとうりゅうは、安永年間(1772年から1781年)に秩父郡両神村の逸見太四郎義年よしとしが開いた剣術の流派です。半蔵はんぞうの父与八よはちは義年の門下で、享和2年(1802年)に梅原村の自宅に甲源一刀流の道場を開きました。以来多くの門人を指導しました。剣術の比留間家は半蔵、良八、国蔵と4代にわたり栄えました。

ひるまはんぞうじゅひ

比留間半蔵寿碑

比留間家の剣術2代目である比留間半蔵ひるまはんぞう顕彰碑けんしょうひで、比留間道場跡地にあります。半蔵の生前に建てられたもので、彼の業績が記されています。表面上部の「比留間半蔵寿碑」は山岡鉄舟やまおかてっしゅうの筆によるものです。半蔵、国蔵くにぞう八王子千人同心はちおうじせんにんどうしんにも剣術を指南していました。両者は萩原弥右衛門組の平同心という身分で、同心として日光勤番も務めました。

歴史名勝No18「満蔵寺」

まんぞうじ

じぞうどう

地蔵堂

慶安年間(1648年から1652年)に幕府から地蔵堂領じぞうどうりょうとして御朱印三石ごしゅいんさんごくを賜りました。

この地蔵堂は開かずの扉といわれ、中に安置されている地蔵は運慶作と伝わっています。

まんぞうじふどうみょうおう

満蔵寺木造不動明王及び両脇侍像

(日高市指定文化財)

造立は室町期と考えられる不動明王像です。頭頂部に水瓶を頂いています。

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