地域物語 第7編「巾着田と高麗川の生活」

更新日:2024年03月21日

歴史名勝No12「水天の碑」

すいてんのひ

天保十五年(1844年)辰集りゅうしゅう甲辰冬十二月日 台座に惣村中そうそんちゅうと彫られている。

川越と秩父を結ぶ旧街道に面して「水天」という大きな碑が建っています。この石碑は、天保15年(1844年)に台の人たちによって建立されました。水天は仏教では水を支配する龍神であり、この碑も水や雨に関する信仰から建てられたと思われます。昔は11月24日にこの水天を祀るお日待ひまちという行事が行われていました。

周辺の文化財

じゅんぱいとう

巡拝塔じゅんぱいとう

水天の碑の左側にあります。 山形県の月山、湯殿山、羽黒山からなる出羽三山でわさんざんを巡礼した記念として、明治15年(1882年)に建てられました。

ばとうかんのん

庚申塔こうしんとう

水天の碑から北側の坂道を下った左側の斜面にあります。安永5年(1776年)に高麗郡台村のこうという集まりで建てられました。

庚申塔(こうしんとう)とは

庚申こうしんとは干支えとの組み合わせで、60日に一度巡ってる日です。この日は寝ると体の内にいる「三尸さんし」という虫が日頃の罪状を閻魔大王に報告するとされるため、人々は集まり、寝ずに夜を明かしました。これを庚申講といい、その記念や村への禍を防ぐため石塔を立てました。

正面に彫られているのが青面金剛しょうめんこんごうです。道教どうきょう道教と結びついた青面金剛は伝尸(でんし)(肺病)病を除くとされ、この伝尸を体内の三尸とするところから庚申の本尊として祀られました。怒った顔立ち、髪は逆立ち、手には弓、矢や刀などを持ち、邪鬼を踏みつけています。

歴史名勝No13「鹿台の堰」

ろくだいのせき

高麗川の蛇行を利用して水田が営まれていた記録は堀口家文書に書かれています。せきは巾着田に水を入れる施設ですが、堰の修理の古文書が残っています。

高麗川はいかだも流していました。鹿台ろくだいはそれまで2本ずつ流してきた筏を組み替える場所で、筏師が泊る宿が2軒あったそうです。

しょうわのしゅうりのしゃしん

昭和33年、台風で壊れた堰の修理時の写真

しょうわ33ねんのしゃしん

修理後の写真(昭和33年)

しんぺんむさしふどき

江戸時代の地誌「新編武蔵風土記稿しんぺんむさしふどきこう」の日和田山図には筏を組み替える筏師が描かれています。

歴史名勝No14「国登録有形文化財 旧新井家住宅」

新井家は江戸時代後期の文化、文政期に名主なぬしをしていました。明治になってからも戸長こちょう、高麗村の村長を務めました。

母屋おもやは明治21年以前の建築で、江戸時代末にさかのぼる可能性があります。客殿きゃくでんは古文書などから明治39年の建築と考えられます。納屋なや、南北の土蔵どぞうに関しても明治中期の建築と推定されます。独立した客殿は他に例を見ない独特な意匠を有します。

きゅうあらいけじゅうたく

母屋、客殿、納屋、2棟の土蔵など生活に関わる建物が一体となって残っているのは非常に貴重な存在で、郷土の歴史的・景観的文化財として評価され、石垣を含めた計6件について、平成26年4月25日に国の登録有形文化財となりました。

旧新井家住宅が建つより前、この地には陣屋があり、市が立てられていました。

天正18年(1590年)江戸に入った徳川家康は地方を管轄するための役所として陣屋じんやを設けます。高麗郡の代官だいかんである大久保長安おおくぼながやすは高麗、毛呂領の管理のため今の高麗本郷に高麗陣屋を設けました。陣屋が設置されると、いちが開かれました。市は高麗川の河原まで広がるほど盛んになり、「足洗い市」と呼ばれました。

周辺の文化財

ちょうじゅじ

長寿寺

旧新井家の西隣にあります。創建は不明ですが、元文元年(1736年)の住職の墓碑が存在します。慶安二年(1649年)、徳川幕府から3ごくたまわっています。

じょうやとう

常夜灯じょうやとう 石尊せきそん金毘羅こんぴら秋葉山大権現あきばやまだいごんげん

常夜灯の前の道が旧道で、長寿寺から来る道とのつじにあります。文化四年(1807年)に建てられました。

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