地域物語 第4編「木綿沢碑と飯能戦争」
歴史名勝No7「木綿沢(ゆうのさわ)碑」
団地に残る歴史ー木綿沢碑と古道(高麗武蔵台、横手台に残る面影と飯能戦争史話)ー
昭和41年、武蔵台団地開発前の文化財総合調査に入った調査団一行は草の中に埋もれた石碑をみつけました。「木綿沢碑」です。団地造成前、当地には横手の峯地区と飯能を結ぶ3本の道が走っていました。太郎坊嶽、勇の沢道、太郎坊新道です。
勇の沢道は沢筋を通るため勾配が緩やかでしたが道が狭かったため、明治3年夏から改修工事をしました。この碑は改修工事の由来を記したもので、毛呂の国学者権田直助の筆によります。明治17年(1884年)に除幕式が行われました。権田は、南国の海辺に嘆く浜木綿の木綿をとり「木綿沢」と書きました。武蔵台団地造成工事の際現在の場所に移されました。
今も残る面影
団地北縁には今でも勇の沢や古道の一部が残っています。また「勇の沢」のほかにも「中田」「大鶴巣」「榎田」「峯四谷」など、団地以前の地名が公園名などに残っています。
勇の沢が残る
団地北縁に残る古道
歴史名勝No.8「横手神社横手三義人懸額」
横手神社の右面に「横手の三義人頌徳記」と記された扁額が奉納されています。幕末、飯能戦争で新政府軍と戦い飯能市能仁寺から敗走する旧幕臣の振武軍の中に、新一万円札の肖像である渋沢栄一の義兄渋沢成一郎や尾高惇忠がいました。
成一郎、惇忠一行がたどり着いた横手の峯地区で村人に助けを求めます。大川戸延次郎、大川戸平五郎、須永多忠治の3人は官軍が包囲する危険の中、成一郎たちを助け、吾野へ逃がしました。決死の覚悟で助けた横手村の3人を「三義人」として後世に伝えています。
秋には見事なイチョウの紅葉を見られる武幡横手神社
横手の古地図
江戸時代の横手村絵図には地元で鎌倉街道と呼ばれる秩父往還が描かれています。高麗川を飯能市の白子側へ渡る橋の橋脚が今でも残っていて当時を忍ばせます。
横手村絵図 延享三年(1746年)
高麗川左岸に残る橋の基礎部
大門橋へ降りてゆく辻にある道標
(右 はんのう 中山 江戸道
左 こま 川ごえ 坂戸道)
更新日:2024年03月21日